悲しくて、優しいウソとは?
おとなになると気づくこと
おとなになると、子どもの頃には理解できなかった、または許せなかったことが、徐々に理解できたり、許せたりします。
そんな中でもハードルが高いのが、
ウソについてです。
幼少期の頃は「ウソは絶対についてはいけません」「人は何時でも正気であらねばなりません」と禁止事項を植えつけられていたからです。
まあ、実際の話、禁止事項を植えつけられるのも、いたしかたありません。
たとえば、「人の生命」にかかわるウソなど…。
善悪などの判断ができない、右も左も分からない子供からウソをつかれると、非常に困ることが出てくるからです。
ダメなウソと必要なウソ
というウソなのですが、
おとなになると、ウソには、次の2つのウソがあることに気づきます。
- 法的にも、道徳的にも、ついてはいけないダメなウソ
- 必要にかれてつかなければならないウソ
社会に出て、いろいろな「大人の世界の事情」を学ぶうちに、「嘘も方便」ということわざにもシックリきたりするのも、この頃です。はい。
必要なウソ
ふくカエル
ふくネコ
この2つのウソの中でも、つかざるを得なかった「必要なウソ」においては、ウソをつく人間に言い知れない感情(罪悪感や背徳感など)を与えます。
そして、この手の感情は、ウソをついた人間に「痛みやしこり」をいつまでも与え続けます。
で、ふっと気づくんです!
でも、ある日、ふっと気づくんです。
自分がついていたウソは、悲しみが深かった分、優しいウソであることに…。
そして、まるで、懺悔をした後のような感覚を覚えます。
最後に…
ウソは、できればつきたくないものです。
でも、ある人の「人生」や「生きる希望」に深く関わるような状況下では、つかざるをえないウソもあると思います。
ウソをつけば、後は、自分との闘いになります。「覚悟をもってウソをつかなけらばならないのだなぁ」と勉強した…ウチです。はい。